学生時代、ある教員が「君たちは(景観としての)高速道路をどう思う?」と問うた事があった。高速道路がなかった時代を知っているその教員にとって、高速道路は醜くい存在だったようだが、逆に高速道路のない時代を知らない私たち生徒から帰ってくる答えは
「なんとも思わない」「別に」等。
結局、教員の機嫌が少し悪くなっただけで曖昧なまま話は別の話題へ移っていった。
今になっても偶に上記の事を思い出し高速道路を見る事がある。
写真の高速道路は私が子供の頃にはなかった高速道路である。
景観としてある方が良いかない方が良いか自問自答すると、ない方が良いに決まっているが、
そこまで嫌悪感も感じない。結局、高速道路は自分にとって風景構成要素の一部となってしまっている事を再確認して終わる。
庄司氏
阪神淡路大震災の時に高速道路が倒れた風景を見たときに、
高速道路の周囲の街並みが既に高速道路がある事を前提に作られているんだなと思った記憶があります。
あのまま高速道路が作り直されなければ街並みはどのように変化していたんでしょうね。
松村氏
>住宅も同じく構造物である以上(中略)考え行動していかないと。
そうですね。一軒建つ。その一軒がゆっくりとでも周辺環境に良い様に作用していって欲しいなと常々思っています。
>電柱・電線
本文で書いた先生は高速道路の事を問題提起したんですが、電柱・電線については触れませんでした。
先生にとって電柱・電線は原風景で問題のないものだったんですかね。
私にとっては電柱・電線の方が醜い存在に思うのですが。
自然に出来た景観と、人の手で出来た景観の、どちらが良い悪いでは無いはずだけど、ひとつ思えるのは人の手に掛かると変化の時間が早いと言うことでしょうか。気がついたらそれまで無かったところにコンクリートの塊。その変わり様に、分っていても納得出来ないのが人なのでしょうね。
阪神大震災で国道に横たわる高速道路が倒れて、しばらくの間スッキリ見渡せるようになった風景に慣れたと思えば、また塞がる。なかなか無い経験だと思いますが、どっちが良いのか。今になると正直分からなくなっています。
住宅も同じく構造物である以上は大なり小なりで既存の環境を変えてしまってますよね。
それによる変化がどう作用するのか、ミクロな視点とともにマクロな視点も、多角的に考え行動していかないと。
ただ、その判断基準の多くを占めるであろう個々の経験に時代での変化もありますよね。個人であれば同じく景観としては悪とされる電柱・電線も原風景として在る物になっています。同年代の似た趣向の人達にとっては、電線が在ることで集団として繋がってる感のメタファーとして作用するレベルだったりする気がします。
答えのない問題に思えますが、まずは常に考え続ける事が大事な部分なのかなと思っています。